東松島のいま。あれから6年経ちました。
今回はCFFジャパン東松島駐在員として2011年から2013年まで勤務した、
金須健(きすたけし)さんから東松島の現在の様子を伺いました。
東日本大震災から6年。この文章をはじめて読んだ時に
地元で暮らす方々の生きる力を感じることができました。
少し長いですが、読んでいただけたら嬉しいです。
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東松島のいま。
森の学校のシンボルでもあるツリーハウスの近くの道路には、
建設業者や引越し業者、新しくできた街に住む人たちの車が行きかっています。
震災前までは一部の地元住民しか利用しない細い砂利道だったこの道路も、
今は震災により被災した方々が住む防災集団移転地としてできた
新しい街の入り口となっています。
宮城県東松島市では、東日本大震災の発災から約6年半となる今年の9月で、
ほぼすべての災害公営住宅・集団移転団地が完成し、
被災された方々の生活も新たな局面を迎えようとしています。
【森の学校のツリーハウス】
多くの方々のご支援を受けながら着実に前へ進んできました。
小学校生活6年間のすべての期間を仮設のプレハブ校舎で
過ごしてきた子どもたちも、卒業前の少しの期間ではありますが、
森の学校と呼ばれる「宮野森小学校」の新校舎での学校生活を送ることができました。
【宮野森小学校新校舎】
震災発災直後の春に小学校に入学した子どもたちは、
今年の春で中学一年生となりました。
はじめは高学年のお兄さんお姉さんに助けられながら生活していた子どもたちも、
いまではしっかり小学校低学年の子どもたちを引っ張る先輩です。
震災でおじいちゃんを失い、
震災語り部の活動を続けている当時小学6年生だった女の子は
「おじいちゃんは自分を待ってくれていて津波の犠牲になった。」と
自分を責めてしまっていた時期もあると、辛い思いを話してくれました。
震災時の自分の体験を3年以上話すことができなかったその子は
「震災で犠牲になった人たちの分も、頑張って生きなきゃ。」と話し、
自分が語ることで救える命が少しでも増えればと震災語り部の活動をしています。
「震災は忘れられることではない、これからずっと向き合い続けて生きていく。」と
今も彼女は涙ながらに語っています。
宮野森小学校が建設された野蒜という地区で、
地域一体となって農業を推進している「アグリードなるせ」という会社があります。
アグリードなるせでは、震災後いち早く農地の再生に向けて
田んぼの除塩作業に取り掛かり、震災の年の秋にはお米を収穫できるほどで、
その後は震災で土地や農機具が被災し、
個人では農業の継続が難しくなってしまった人たちの農地を借りて、
地域営農に取り組んでいます。農繁期には地域の方々の手を借りながら、
震災後に志を持って集まった多くの若手社員とともに農業を行っています。
【アグリナードなるせさんが除塩作業を行い再生した田んぼ】
アグリナードなるせでは6次産業化にも力を入れており、
自社の土地で育てた小麦粉を原料に自社工場で
作ったバウムクーヘンを販売しています。
「のびる」ブランドの定着に向けて社員の方々は日々新たな発想と努力で、
前に進んでいます。
【新たに開発したバームクーヘン”のびるバーム”】
震災後、農業、漁業、観光、福祉など、
いろいろな分野で東松島を盛り上げて行こうと、
たくさんの青年が活躍しています。その青年たちが大好きな東松島に、
ぜひ遊びに来てください。東松島の魅力を存分に感じてください。
そして、東松島を好きになってもらえれば幸いです。
いつでも、東松島でお待ちしています。